宏と道造 ―「追分の山荘」の建つ敷地とその謎

2017/09/19 種田元晴


 しなの鉄道線の信濃追分駅から南西に800mほどいったところに、南北に長い広大な土地がある。大江宏が設計した自らの「追分の山荘」は、この地に建つ。この敷地は、宏の父・大江新太郎が亡くなった1935(昭和10)年に、遺産相続の関係から宏と弟の透・修の3人が共同で購入したものであった。

 この土地には、購入直後に小さな和風の家屋が5軒点在して建てられた。そのため、近所からここは「五軒別荘」と呼ばれていた。3軒は他人に貸して土地の維持費の足しとし、残りの2軒を大江家の人々が自由に使った。1945(昭和20)年には、空襲を避けるべく、宏の一家がここに疎開したりもした。

 その後、戦後しばらくして、5軒のうちの3軒が取り壊される。そして新たに、一家が過ごすための母屋(1960年5月竣工)と、事務所々員らと懇親を深めたり、学生らとゼミ合宿をするための寮(1962年12月竣工)がそれぞれ宏によって設計された。このふたつの建築は、今もそこに現存している。

 寮は、20人程が泊まれる北側の宿泊スペースと、皆が集って議論や会食を楽しむことの出来る南側の集会スペースから成っている。母屋が比較的平らな地面に建てられている一方、向かいの寮は、南東側に向って下る斜面地に建っており、そのため、細いピロティによって持ち上げられている。このピロティ部分が、寮の外観を印象深く特徴付けている。

 ところで、大江宏は、この土地を求める以前から追分によく出かけ、信濃追分駅北側の旧追分宿界隈にあった油屋や亀田屋に滞在していた。土地を求めにやってきた1935年は油屋に泊まった。そこで宏は詩人の立原道造と出会う。立原は、東大建築学科での大江の一つ上の先輩でもあった。建築にもその才能を発揮し、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」など、追分を敷地としたその計画の抒情性は、教官や友人らから高く評価された。しかし、立原は、卒業設計から2年の後、夭折してしまうのだった。

 さて、晩年の大江宏が、この立原の卒業設計に関して興味深い発言を遺している。曰く「あれは、だいたいは追分のぼくのところの土地を仮想の敷地にしているんだけれどもね」とのことであった。立原の卒業設計が計画されたその地に、25年を経て大江は「追分の山荘」寮棟を建てたのだった。

 この事実を知った後、改めて立原の卒業設計スケッチのロッジ部分を見てみたら、「追分の山荘」寮棟とよく似ている点があることに気づいてしまった。

 例えば、
 ・ 切妻、寄棟による2つの大きな屋根と、その間の小さな切妻屋根
 ・ 棟全体を持ち上げる細い柱群
 ・ 中央に取られた数段の階段を経てのアプローチ
 ・ 寄棟屋根側に伸びる角柱の煙突
 ・ 建物正面側のピロティ状のテラスとそこに回る類似した形状の手摺
などの点が両者に共通している。

 立原は卒業設計につぎのように付していた。

 〈優れた芸術家が集まつて そこにひとつのコロニイを作り、この世の凡てのわづらひから高く遠く生活する〉

 大江は立原が掲げたこの理念へのオマージュとして、建築家が自由に使える「追分の山荘」寮を作ったのかもしれない。

 追分の山荘 寮棟

追分の山荘 母屋


(第20回「法匠展」出展作品付言,法政大学建築同窓会主催,2017.9)